インド文化の影響
今から約200年前に生まれた現王朝(チャクリ王朝)とその都バンコクの創立には、インドの神話と思想が大きく関わります。インド神話に登場する天地創造の神インドラ(帝釈天)の命により、技芸の神ヴィシュヴァカルマンが建設した「神の都」がタイ語「クルンテープ」の意味で、バンコクのタイ語正式名となっています。
また王朝名「ラタナコーシン」も、インドラ神とエメラルド仏像を指す宝玉という意味の「ラタナ」を合成したことばです。
神話のヴィシュヌ神は、人間界では「ラーマーヤナ」物語の主人公で理想の王者ラーマ王に化身して統治すると考えられ、現国王をラーマ9世とよぶのは現王朝の王をこのラーマ王になぞらえています。ラタナコーシン王朝の菩提寺として宮殿内に建立されている、エメラルド寺院の境内の回廊壁画に、インドの叙事詩「ラーマーヤナ」のタイ語版「ラーマキエン」が178の場面にして極彩色で描かれているのも、現王朝の神話として絵画に表現したもの。舞踊劇としての「ラーマキエン」も王宮の劇団で保存継承され、現在も国立舞踊学校で舞踊者が養成されています。
また詩編「ラーマキエン」の創作には、初代王をはじめ歴代の王が筆を染め、とりわけ、ラーマ1世の長編の韻文作品は、タイ文学の傑作とされています。ほかにも、インドの説話や古典が韻文や劇の形で紹介され、タイの芸術文化に大きな影響を与えています。
国王を神の化身とするヒンドウー教の神王思想は、タイ国王の座る玉座を神の止住するスメール山(須弥山)の頂きに例えていて、スメール山には至高神に仕える神々が住み、神鳥ガルダが飛び交い、ふもとには獅子が俳個すると考えられ、その様を玉座に浮き彫りで描き、獅子は獅子脚とよぶデフォルメしたスタイルで描かれています。そしてスメール山麓の森を、玉座の四隅に配した金や銀で製作された樹木で表現している。王宮のエメラルド寺院ワット・プラケオに安置されているエメラルド仏像は、北タイのチエンセーン様式を伝える仏像であるが、緑色をしたこのエメラルド仏像のみが、同じく緑色をしているとするヒンドウー教のインドラ神の象徴として考えられ、ヒンドウーの神々の住むスメール山がエメラルド仏像の台座にも表現され、国王の玉座と同様の装飾が施されています。
仏教を信奉し擁護する王が続く王朝にとって、貴石に彫られたエメラルド仏像をインドラ神としているのは、仏教の「倶舎論」が説く「須弥山」思想に同じ宇宙観が語られているからです。「須弥山」思想はタイの寺院にもみられます。寺院の屋根の庇には、水が流れるような飾りと、蛇が鎌首をもたげているような姿をデフォルメした飾りがその先についていて、階段の欄干にも蛇のような龍の姿がみられます。寺院を世界の中心にあるスメール山に例え、その山から流れ落ちる水を表現し、水に住むナーガとよぶ龍を象徴に用いているのです。
水中に住む蛇に似た龍ナーガは、雨と豊ま莞をもたらすとされています。
中国文化の影響
バンコクの町を彩り、陽光に映える鮮やかな寺院の緑色や茶色の瑠璃瓦は、本来タイ製のものではなく、18世紀末からl9世紀前半にかけて、ジャンク船貿易で中国から輸入した瑠璃瓦が始まりであったといわれます。同じくタイに舶来された中国の陶磁器は、タイの王侯貴族の愛玩となり、彼らの趣味にあった鮮やかな色彩と華やかな紋様のタイ製陶器ベンチャロン焼を生み出すことになります。
当時の対中貿易は、商品のみならず、人とその文化を運び込み、「三国志演義」をはじめとする中国の歴史小説も紹介され、英雄豪傑が活躍する散文の世界を開拓しました。また、バンコクを中心に、豊かな自然の産物に恵まれて束南アジアでは最もバラエティーに富む食の文化も育んでいます。
マレー・ジャワ文化の影響
7世紀の中ごろに興ったマレー半島とスマトラ島を覆うシュリーヴィジャヤ国の中心地のひとつに、南タイのチャイヤーが挙げられるように、南タイには南の多島海からの文化が根づき、影絵芝居やジャワの英雄伝説「パンジ物語」がバンコクにまで伝えられています。
西洋文化の影響
19世紀中葉の西洋人渡来により、まず影響を受けたのは寺院壁画を描くタイ人画家たちであり、19世紀末には洋館がバンコクに出現し、上流階級では洋服を着用するようになる。20世紀になると、美術や建築の分野ではさらに影響が深まるが、現代文学、思想の分野では1930年代以降となる。第2次大戦後にアメリカの大衆音楽や映画が大量に紹介されると、タイの映画や音楽に多大の影響を与え、最近ではアメリカでヒットしたミュージカルがタイ語で上演されるほどである。